中平卓馬 火―氾濫 @ 東京都国立近代美術館

中平卓馬展に滑り込みで行ってた。中平といえば、自分が写真をきちんと勉強?し始めたころにちょうど亡くなってしまったんだよね。死後初の回顧展ということで、まとまって仕事を把握する機会があるのはありがたい。構成としても時系列で追っていく流れになっていて入り込みやすかった。

最近そういう写真に触れてなかったけど、やっぱり初期のラディカルなアレブレボケの迫力には抗いがたい魅力があるなあと思いながら。時代と主張と表現手法が完璧なまでに一致しているときに”醸し出される”衝撃みたいなものがある。それは時代が当時から乖離すればするほど、色濃く受け取られ感じ取られるのだろうし。

そこから「植物図鑑」を越えて。主体としての中平の主張・批判が介在する、いわばドキュメンタリーであった過去の写真を否定した後の即物主義的な写真が並ぶ。特に晩年の写真群「キリカエ」が印象的だったかな。100mmレンズだけでとらえた都市の表情が、100mmでも確かに「風景」だなあと思えたり。テクスチュアは初期作品と比較すれば無機質に見えたとしても、どこか親しみがあって愛嬌があって目に光が灯っている。文字通り「カメラになった男」となった晩年の中平でさえも、捨てられずにまだ追い求めていたものがあったのかもねと思えました。

自分的には即物主義的に芸術(とりわけ音楽)を見ることはずっと目指しているので、中後期の中平にはシンパシーを感じるのよね。と言いながら色んな言葉を弄して今この記事を書いているみたいなコンフリクト。

北の丸公園で休憩しようと思ってたらさくら祭りのおかげで見たことないような人出。人がいない場所を追い求めて飯田橋ぐらいまで歩いてたら、いつの間にか神田川沿いの桜に吸い寄せられてた。ここも花見客はいるにはいるけれど、皇居周辺とか目黒と比べたらめちゃくちゃ快適。椿山荘〜早稲田あたりは周辺の雰囲気もいいし、落合〜東中野ぐらいのライトアップもつい足を止めてずっとそこにいたくなるような趣。てな感じでいつの間にか新宿まで歩いてた。全然知らなかったけど穴場だった!

なんかすぐに影響を受けて写真を撮ってしまうみたいなところがある。

ピーター・ドイグ展 @東京国立近代美術館

たしかEテレの日曜美術館か何かで特集をやっていて知ったのだけど、それからしばらくして急に思い出して急に行ってきたというやつ。

金曜の夜だったのでそれなりに人はいましたが、概ね快適に鑑賞できました。展示は大きく分けて三部構成で、初期のカナダ時代、現在までのトリニダード島時代、それからドイグのスタジオでやっているという映画の上映会のポスター集。第一部と第二部はほとんどが巨大なカンバスに描かれた油彩画です。全点撮影可だったのでいくつか。

全体を通して感じられる異様なる行き場の無さ。カナダの自然やトリニダード島の空と海、という主題はありつつも、時間と場所、風景と人物といった構成要素はほとんど融解していて、それぞれははっきりと具象的に描かれているにも関わらず、その境界線は非常に曖昧なまま受け止めることになってしまう。モチーフそのものは親しみやすくて、作品によってはとてもポップに見えるものもあるんだけど、実際のところ、立脚点はまったく覚束なく不安定(unstable)な状態にある。一見ほとんど正解として認識できるものはすぐそこに示されているのに、これは正解ではないという疑念を拭うことがどうしてもできない。そんな感覚にまんまと放り込まれてしまうわけです。僕自身はまったく読み込むことができないんですが、これに加えておそらく美術史的なコンテクストも忍び込んでいるので、一枚の絵が重層的すぎていくらでも楽しむことができます。迷宮のような絵画だ…

個人的には、第一部の初期作品におけるマチエールが醸し出す激しさと、しかし全体から受ける静けさのアンビバレンスがとても良かった。第二部に移って、時代を経るごとに作品の表層は整然としてくるのだけど、上に書いたような異様さと不安定さはかえって大きくなっている。時代を通じて繰り返し現れる三分割構図や川に浮かぶカヌーのモチーフ等が呼び起こす、あるはずのないデジャヴもその印象を強くする。

最後はドイグが上映した映画をイメージした一枚もののポスターが並んでいるのだけど、絵画以上に映画オンチすぎて、ただ見てるだけみたいになってしまった(笑)ともあれ、絵画というフォーマットの存在感が必ずしも大きくない現代美術にあって、現在進行形の絵画のとても濃密な流れの中に身を置けた時間でした。ギリギリ行けてよかったー。

森山大道の東京 ongoing @東京都写真美術館

先ごろ終了した森山大道の展示に駆け込みで。

たぶん自分のアンテナが低いだけなのだが、森山は1960-70年代の作品が取り沙汰されることが多い気がしていて、現在進行形の作品がまとめて見られる機会があまりないように感じていたので、まさに”ongoing”と題されたこの展示会には興味があったのです。

ongoingと言いつつ、会場に入って最初のフロアで出会うのはいつもの「三沢の犬」だったり、ほかの1960年代の諸作品だったりするけれど、シルクスクリーン印刷のドット感がおもしろくて、ただでさえ単純化された階調、暴力的なまでに粒子で覆われた「表面」が、白と黒の点の集合体による小宇宙のようにも見えて、ただならぬ吸引力を感じる。そして、ミクロからマクロに視点を移してみたときに得られる実体感も、体験としてとても満たされるものがある。森山の、プリントまで含めて写真(あるいは森山自身の表現)という活動、みたいな姿勢はいいです。このフロアだけ撮影可能。

最初のフロアのだいぶ「さようなら」した作品群と比べると、メインのフロアのongoingな作品はインクジェットプリントのいわゆるストリート写真が中心で、親しみやすい。このあたりは極端な話、自分でも撮れないことはない写真もあるのだけど、ストリート写真を撮る人にとっては、自分ではない誰かの目を通した街を見ること自体が楽しかったりする。森山自身がどこかで言っていたように、写真はアマチュアリズムが本質にあることが面白い。その森山の目はどうかというと、先のフロアと比較すれば、デジタル写真であることによるクールさの印象も強いのだけど、とらえている画がやはりどこかヘンで不穏である。再開発によって整然と「消臭」された東京と、それでもなお駆逐されずに残る、猥雑でエロティックでイヤらしい、ヘンな東京との間に存在する断層を森山の鋭利な目線で暴く作品群。そのコントラストに目眩がしてくる。

影響されやすいので久しぶりにストリート写真っぽいものを撮ってみる。

前に写真美術館に来たのは、なんと17年前のこと。ファミコン20周年を記念した「レベルX」というビデオゲームの展覧会があったんですよね。自分で写真を撮り始めたのはその2、3ヶ月あとだったりして。また来たいと思いつつそんな時間が経っていた。