ピーター・ドイグ展 @東京国立近代美術館

たしかEテレの日曜美術館か何かで特集をやっていて知ったのだけど、それからしばらくして急に思い出して急に行ってきたというやつ。

金曜の夜だったのでそれなりに人はいましたが、概ね快適に鑑賞できました。展示は大きく分けて三部構成で、初期のカナダ時代、現在までのトリニダード島時代、それからドイグのスタジオでやっているという映画の上映会のポスター集。第一部と第二部はほとんどが巨大なカンバスに描かれた油彩画です。全点撮影可だったのでいくつか。

全体を通して感じられる異様なる行き場の無さ。カナダの自然やトリニダード島の空と海、という主題はありつつも、時間と場所、風景と人物といった構成要素はほとんど融解していて、それぞれははっきりと具象的に描かれているにも関わらず、その境界線は非常に曖昧なまま受け止めることになってしまう。モチーフそのものは親しみやすくて、作品によってはとてもポップに見えるものもあるんだけど、実際のところ、立脚点はまったく覚束なく不安定(unstable)な状態にある。一見ほとんど正解として認識できるものはすぐそこに示されているのに、これは正解ではないという疑念を拭うことがどうしてもできない。そんな感覚にまんまと放り込まれてしまうわけです。僕自身はまったく読み込むことができないんですが、これに加えておそらく美術史的なコンテクストも忍び込んでいるので、一枚の絵が重層的すぎていくらでも楽しむことができます。迷宮のような絵画だ…

個人的には、第一部の初期作品におけるマチエールが醸し出す激しさと、しかし全体から受ける静けさのアンビバレンスがとても良かった。第二部に移って、時代を経るごとに作品の表層は整然としてくるのだけど、上に書いたような異様さと不安定さはかえって大きくなっている。時代を通じて繰り返し現れる三分割構図や川に浮かぶカヌーのモチーフ等が呼び起こす、あるはずのないデジャヴもその印象を強くする。

最後はドイグが上映した映画をイメージした一枚もののポスターが並んでいるのだけど、絵画以上に映画オンチすぎて、ただ見てるだけみたいになってしまった(笑)ともあれ、絵画というフォーマットの存在感が必ずしも大きくない現代美術にあって、現在進行形の絵画のとても濃密な流れの中に身を置けた時間でした。ギリギリ行けてよかったー。

森山大道の東京 ongoing @東京都写真美術館

先ごろ終了した森山大道の展示に駆け込みで。

たぶん自分のアンテナが低いだけなのだが、森山は1960-70年代の作品が取り沙汰されることが多い気がしていて、現在進行形の作品がまとめて見られる機会があまりないように感じていたので、まさに”ongoing”と題されたこの展示会には興味があったのです。

ongoingと言いつつ、会場に入って最初のフロアで出会うのはいつもの「三沢の犬」だったり、ほかの1960年代の諸作品だったりするけれど、シルクスクリーン印刷のドット感がおもしろくて、ただでさえ単純化された階調、暴力的なまでに粒子で覆われた「表面」が、白と黒の点の集合体による小宇宙のようにも見えて、ただならぬ吸引力を感じる。そして、ミクロからマクロに視点を移してみたときに得られる実体感も、体験としてとても満たされるものがある。森山の、プリントまで含めて写真(あるいは森山自身の表現)という活動、みたいな姿勢はいいです。このフロアだけ撮影可能。

最初のフロアのだいぶ「さようなら」した作品群と比べると、メインのフロアのongoingな作品はインクジェットプリントのいわゆるストリート写真が中心で、親しみやすい。このあたりは極端な話、自分でも撮れないことはない写真もあるのだけど、ストリート写真を撮る人にとっては、自分ではない誰かの目を通した街を見ること自体が楽しかったりする。森山自身がどこかで言っていたように、写真はアマチュアリズムが本質にあることが面白い。その森山の目はどうかというと、先のフロアと比較すれば、デジタル写真であることによるクールさの印象も強いのだけど、とらえている画がやはりどこかヘンで不穏である。再開発によって整然と「消臭」された東京と、それでもなお駆逐されずに残る、猥雑でエロティックでイヤらしい、ヘンな東京との間に存在する断層を森山の鋭利な目線で暴く作品群。そのコントラストに目眩がしてくる。

影響されやすいので久しぶりにストリート写真っぽいものを撮ってみる。

前に写真美術館に来たのは、なんと17年前のこと。ファミコン20周年を記念した「レベルX」というビデオゲームの展覧会があったんですよね。自分で写真を撮り始めたのはその2、3ヶ月あとだったりして。また来たいと思いつつそんな時間が経っていた。

ロンドンナショナルギャラリー展に行った

だいぶ久しぶりに国立西洋美術館へ。

まいど美術展には行こうと思いつつ結局行けてないことが多いのですが、今回は読売中高生新聞の企画でマイ推しメンがこの展覧会を取材していて、自分の配信でも相当お勧めしていたのが一つ。それだけではなくて、今回の展示の目玉のファン・ゴッホの《ひまわり》を見たかったというのがもう一つ。

というのも、20年ぐらい前にアムステルダムのファン・ゴッホ・ミュージアムで《ひまわり》を見たことがあるんですよ。その記憶があったので、今回ロンドンのナショナルギャラリーから来るというのを聞いて「あの時に見たのは???」となった。調べたら全部で7点あるというのを20年越しに知った次第です(美術史に明るくなさすぎる)。そんな感じでがぜん興味が湧いてきたのもあって、勢いでチケット取っちゃった。

構成としてはルネサンス期から印象主義までのヨーロッパ各地での西洋絵画の潮流を追っていくというもので、イギリスからの視点を軸に、というのが一つのテーマ。入場してさっそく、推しメンが何度も「描き込みがすごい!」と言っていたクリヴェッリの《聖エミディウスを伴う受胎告知》がある。初っ端からこの美術展の中ではもっとも巨大な作品で、目の前にすると強烈なパースペクティブが感じられます。さらに近づいてみると、推しメンの言うとおり、細かな装飾のディテールがみるみる浮かび上がってくる。この時期の宗教画らしい、リアリティとアンリアリティの狭間の別世界。

それにしても、去年上野の森美術館でフェルメール展を見た(これまた記事にしてない)ときも思ったけれど、17世紀のオランダ絵画の厳然としたスタティックさは毎回目を瞠ってしまいます。静物画でも風景画でも肖像画でも、空間を標本にしたかのような世界が、カンバスを通して音を立てずに、しかしくっきりと立ち現れる。こういう感覚は美術館に来たなぁ、という感じがする笑 それに対して、同時期のスペイン絵画の表情の豊かさよ。今にも動き出しそうな、活き活きとした躍動感にとても親しみが持てます。時代の人々の生活、そこにある時間の流れを巧みに切り取った作品群。

ラストは19世紀印象主義ーポスト印象主義絵画なんですけど、この美術展で一番印象に残ったのがセザンヌの《プロヴァンスの丘》です。後期のセザンヌがここまで画風を変化させていたというのを知らなかっただけなのですが、それを置いておいたとしてもとても面白い。遠くに伸びる丘の風景やそれを彩る木々、岩肌が絶妙にディフォルメされることで、かえって目に見える情報は整然と(展示内の言葉を借りれば「幾何学的に」)なり、代わって光や温度、匂いといった要素が手に取るように感じられる…。19世紀絵画とキュビズムを繋ぐ、クラシック音楽で言ったらエリック・サティみたいな立ち位置が好きですね。もちろん、ルノワールやモネのザ・印象主義な作品群も素晴らしい。

その奥に待っているのがファン・ゴッホの《ひまわり》。昔は子どもながらに変哲もない静物画としか思っていなかったけれど…目の前にして受ける印象は、(厳密には異なる作品としても)20年前に見たときとはだいぶ違っている。セザンヌの作品でも感じた南フランスのからっとした眩しい陽光を想起させるような黄色の世界がとにかく美しい。間近で見ると、ファン・ゴッホによる重厚な塗りの筆致が迫力を感じさせます。何時間でも見ていられそうな、非常に複雑なニュアンスを含んだ黄色です。全然見飽きないのだけど、入場回が一番最後だったので、残念ながら閉館時間で退出。

《ひまわり》以外は小粒な作品が多いのかな、とも思ったのですが、そういう作品にも想像力を掻き立てられたり、西洋絵画のイギリスにおける受容史という面でも、時代を追いながら分かりやすく理解していける構成で、興味の尽きない美術展でした。久しぶりに家から出て楽しかった!()