Kurt Rosenwinkel’s Next Step Band Reunion @ 高崎芸術劇場

ジャズを聴きに高崎へ小旅行。

とは言っても昼出発でのんびり。午前中は何してたかというと、キッチンカー大作戦に山内瑞葵ちゃんが出演ということで六本木へカレー食べに行ってた。20分30分待機で買えたかな。フルーツ系の甘みと濃厚なスパイスとが絡んで美味しいカレーだった。ずきちゃんと佳純ちゃんと少し話せてカレー渡されてカレー食べれて800円なので安いもん。番組のOA見たら数フレームぐらいモザありで映ってた。

昼過ぎに新宿から湘南新宿ライン経由でゆっくり高崎へ。高崎は半年に1回ぐらい来てるのだが、こういうイベントごとで来るのは初めてな気がする。

2時間ぐらい揺られて到着してもまだそこそこ時間はあって、こういうときはだいたい街歩いて写真撮るとかなんだけど、死ぬほど暑いためかき氷を食べることにしました。10分ほど歩いたところのAORAKI CAFEでピスタチオかき氷。

提供に時間かかりますが…と言われたけど言われた半分くらいの時間で来て笑顔。めっちゃ美味しかったー。

お店を出てもう一件行きたい場所があって、また少し歩いて駅の北側へ。前に人から教えてもらったwarmthというカフェ。カフェというかコーヒーショップ?このカフェの何がいいかというと、70〜90年代の邦楽のLPを真空管アンプを使った本格的なオーディオで聴けるとこ。この日は行ったら山下達郎のMelodiesがかかってました。最近LPが聴ける喫茶店にハマりつつあるけど、自分が探すとジャズが聴ける店に偏りがちなので、この店は教えてもらってよかったなと。

そんなこんなで時間も過ぎたので駅の東側、高崎芸術劇場はペデストリアンデッキで駅から直通でアクセス性最高。開館は2019年なんですね。水戸行ったときも思ったけど、文化施設が身近にある環境っていい。今回は地下のスタジオシアターでのライブ。500人ぐらい入るらしいけど見た感じ満員でスゲーってなってた。

ピアノは置いてはあるけれども人の姿はなくて、サックス、ギター、ベース、ドラムの編成。カート・ローゼンウィンケル、マーク・ターナー、ベン・ストリート、ジェフ・バラードのネクスト・ステップ・バンドのメンバーは自分的にも10代の頃から聴いてきたようなメンバー、曲も当時のレパートリーだけど、ちゃんと今の音になってるのが正しくリユニオンだよなあと。単なる同窓会としてではなく、20年の時間で通ってきた道を感じさせるような。アタックをミュートした独特のローゼンウィンケルのギターの音色にも、アンサンブルの上を滑るように遊泳するターナーのフレージングにも感動があった。

サックス吹きの端くれだったものとしてはターナーは普通に憧れのプレイヤーだったので、すぐそこのステージでサックスを吹いていることがとくに現実感なかった。なんでもないフレーズでも、スケールを上昇してくだけでも心地いい抜け感があって、低音から高音までカラーが複雑に移り変わっていく。めちゃくちゃ心をくすぐられて仕方なかった。

この4人ではジェフ・バラードだけ見るのが2回目で、前回はパット・メセニー/ブラッド・メルドーのカルテット公演だったので、17年前。前はドカドカとライブ映えするパワー系のドラムがすごく印象的だったけれど、ビートがすごく繊細な感じになっていてそれも今っぽいなと。ちな体型は今のほうがパワー系っぽい。

改めて聴くとだけど、かなり複雑なコンポジションをした曲が多いなと思った。まだテーマだったの!?みたいな曲、10年代みも感じるような変拍子の曲もあった。コンポーザーとしてのローゼンウィンケルの面白さも感じつつ、今のこのメンバーが織りなすサウンドテクスチュアがそこにぴったりハマっていることも素晴らしかった。

ライブの最後だけローゼンウィンケルがピアノを弾いて終わり。90分1セット濃かったなー。終演後に機材を撮影して帰ろうと思ったら、ターナーが自分で機材を片しにきて、少し話して握手までしてもらったのでした。アイドルと握手するときの100倍くらい緊張したわ。

夜は両毛線で一駅行ったところにあるシャンゴでベスビオパスタ。やっぱ群馬来たらスパゲティなんよね。てことで帰りも高崎から普通列車で。割と詰め込んだけど行きたいとこ行けて食べたいもの食べれて充実。

Nik Bärtsch’s Ronin @南青山Baroom

アイドルおたく活動も一段落したため少し久しぶりにジャズのライブ、ということでニック・ベルチュを聴いた。Baroomは初めて来たというか、ちょっと前にトミーカ・リードのチケットが取れなくて行き損ねたのだが、かなり良い会場だった。円形のシアターになってるのは新鮮。

もともと3列ぐらいしかないが席は最前。上手側だったのでドラムが目の前だった。ニック・ベルチュ・ローニンはサックス入りのカルテット編成。上にジャズのライブとは書いたものの、やっているのはほぼミニマル音楽である。誰か1人からあるモティーフが投げかけられ、そこにベース、あるいはサックス、といった具合に一つ一つレイヤーが重ねられていき、有機的なドライブ感あふれるビートを伴った複雑なサウンドスケープが出来上がる。するとピアノをプレイするベルチュから掛け声が発せられ、新しいモティーフが提示、サウンドは次なる姿に移り変わっていく。

音響とグルーヴの交錯によるトリップ感とか、ミニマルな音形から始めてレイヤーを重ねていくみたいな方法論はマイルス・デイヴィスのOn The Corner的なところもあって、しかし表象されるテクスチュアはカオスではなく、ベルチュによる整然とした禅思想的美学が生きている。ピアノの音色も美しければ、パーカッシブな内部奏法には身体を揺さぶられる。サックスも含めて、このバンドでは全員が同時にソロ楽器でありリズムセクションでもあるという、アンサンブルにおけるバランスの緊張感が生で感じられたことがとても楽しかった。真っ先にスタンディングオベーションしてしまいました。

ちょっと前のソロピアノのアルバムEntendreのLP売ってたから欲しかったなー。終演後の店内はジャッキー・バイアードが流れてた。

Ryuichi Sakamoto : Opusを見た

109シネマズプレミアムでRyuichi Sakamoto : Opusを見てきました。ここではしばらく前から先行上映をやっていたのですが、見たのは正式な封切り(って今言う?)のあとです。

始まってすぐに、椅子に腰を下ろしてピアノに向かう小さな背中が見えます。まず耳に残るのはピアノの音ではなく、その背中の息遣い。その時点では表情はうかがい知ることはできないのだけど、その内側には炎がたしかに燃えている。坂本龍一がまだそこに生きていると確かに感じられて、そこで一気にモノクロのスタジオの世界に引き込まれていくような、そんな冒頭のカットが印象的でした。

作品を通してテンポをぐっと落として、一見して楽曲は静かに穏やかに繋がっていくのですが、その一音一音に込められたものはあまりにも重たい。一回の打鍵のために、想像もつかないほどのエネルギーを燃やしています。自ら生み出した音を受け止めていくような教授の表情から垣間見えるのは壮絶な苦闘。そこで燃えている炎がとても小さな灯火であることに気付かされます。

しかしそんなプロセスを経て表象されるピアニズムが、皮肉なほどに美しい。煌めく音の粒立ち、豊かな低音の鳴り、味わい深い倍音のゆらぎ…かすかな音量で収められた打鍵音、呼吸音とともに伝わる繊細なタッチが、数々の楽曲の深みをこれまでにないほどに引き出しています。

一つ書いておきたいのはセットリストの中盤、愛娘に捧げられたバラードAquaについて。トライアドコードを中心に進行する、教授の曲としてはとてもシンプルな響きとメロディ。モノクロの世界に差し込んだ明かりがこれまでの苦闘をひとときでも癒すようで、ピアノに触れる時間を慈しむように弾く教授を見ながら涙を抑えられなかった。

世を去る数日前に東北ユースオーケストラの演奏と吉永小百合の朗読を聞いて、「これはやばい」と呟いて涙を流す教授の姿がテレビで放映されていましたが、まさにそんな気持ちでした。蓋しこの曲の最後の名演と言ってよいでしょう。

それだけでなく、このコンサート映画における多くの演奏が、坂本龍一の楽曲の自作自演のピアノ演奏として決定的なものです。ぜひアルバムとしてもリリースしてほしいと切に思います。

エンディングで流れるOpus、ひとりでに音を奏でるピアノ……教授の人生の最期を飾ったArs longa vita brevisの言葉で作品は締めくくられます。彼の姿はもう見えないけれど、ふしぎと彼の不在は感じません。音楽はここに流れ続けている。示唆的な余韻に満ちたラストシーンが、自分の中でとても好きになれたのでした。

僕はつい最近まで、長いあいだ教授の特別なファンというほどではなかったのですが、当然常に動向は気になるミュージシャンでした。最初に聴いたのは2005年か2006年ぐらいにNHKで放送されていたライブ映像で、高校に上がってからちょうどYMOのアルバムのリマスター版が出て、友達からBGMのCDを借りたり。Eテレでやっていた「スコラ」も見てました。世代的には初めてリアルタイムで聴いたアルバムはOut of Noiseだったこともあって、僕の中では教授はミニマリズムとかエレクトロニクス、音響的なミュージシャンであり続けていたなあと思います。

それが変わったのが自分でピアノを弾くようになったここ2、3年で、それからは様々な曲と演奏を参照しましたね。そんなことを経ての教授の最後の作品がこのピアノコンサート映画というのも、自分的には感じ入るものがあったのでした。