成田山小々旅行

全然予定はなかったのですが、急に昼ぐらいに出発して成田へ。浜松でうなぎを食べなかった話を前の日にしてて、なんか食べたくなったんですよ。そういうわけで成田山の表参道。前に来たときは高校生だったので、十数年ぶり。前に来たときはめちゃのどかに歩けたような記憶があったんだけど、Go Toしに来ている人たちが多いのか、連休前というのになかなかの人出。おまけに車も普通に参道を通るので、歩きにくいなあなんて思いながら。でも街並みは変わらず美しい。

有名店らしい川豊さんで上うな重。これが食べたかった。満足度高し。ほかのお店との違いはわかりませんが目的は果たせた。お店の建物が有形文化財らしいのですが、登録が令和2年4月となっており、意外と最近だった。

新勝寺といえば、節分の日に力士が豆まきに来るんだけど、だいたいその時の第一人者、つまり現在なら横綱白鵬がほぼ必ず来ているはずです。何か規定みたいなものがあるのだろうか…

夜はMUSIC GATEの配信ライブを見ないといけなかったので、一通り回ってそそーっと帰ったのでした。滞在2時間で楽しめる小々旅行。

森山大道の東京 ongoing @東京都写真美術館

先ごろ終了した森山大道の展示に駆け込みで。

たぶん自分のアンテナが低いだけなのだが、森山は1960-70年代の作品が取り沙汰されることが多い気がしていて、現在進行形の作品がまとめて見られる機会があまりないように感じていたので、まさに”ongoing”と題されたこの展示会には興味があったのです。

ongoingと言いつつ、会場に入って最初のフロアで出会うのはいつもの「三沢の犬」だったり、ほかの1960年代の諸作品だったりするけれど、シルクスクリーン印刷のドット感がおもしろくて、ただでさえ単純化された階調、暴力的なまでに粒子で覆われた「表面」が、白と黒の点の集合体による小宇宙のようにも見えて、ただならぬ吸引力を感じる。そして、ミクロからマクロに視点を移してみたときに得られる実体感も、体験としてとても満たされるものがある。森山の、プリントまで含めて写真(あるいは森山自身の表現)という活動、みたいな姿勢はいいです。このフロアだけ撮影可能。

最初のフロアのだいぶ「さようなら」した作品群と比べると、メインのフロアのongoingな作品はインクジェットプリントのいわゆるストリート写真が中心で、親しみやすい。このあたりは極端な話、自分でも撮れないことはない写真もあるのだけど、ストリート写真を撮る人にとっては、自分ではない誰かの目を通した街を見ること自体が楽しかったりする。森山自身がどこかで言っていたように、写真はアマチュアリズムが本質にあることが面白い。その森山の目はどうかというと、先のフロアと比較すれば、デジタル写真であることによるクールさの印象も強いのだけど、とらえている画がやはりどこかヘンで不穏である。再開発によって整然と「消臭」された東京と、それでもなお駆逐されずに残る、猥雑でエロティックでイヤらしい、ヘンな東京との間に存在する断層を森山の鋭利な目線で暴く作品群。そのコントラストに目眩がしてくる。

影響されやすいので久しぶりにストリート写真っぽいものを撮ってみる。

前に写真美術館に来たのは、なんと17年前のこと。ファミコン20周年を記念した「レベルX」というビデオゲームの展覧会があったんですよね。自分で写真を撮り始めたのはその2、3ヶ月あとだったりして。また来たいと思いつつそんな時間が経っていた。

冷蔵庫のフィルムから

2,3年前にまとまってフィルムで写真を撮っていた時期があって、その頃のフィルムをいくつか冷蔵庫に放置したままだったものを現像する。生活圏に写真店がないというのもあったし、当時は毎週のように遠出をしていて自転車操業みたいな生活だったので、ずっと後回しにしていたら数年経ってました。白黒フィルムのほうが多かったのでお盆の期間を挟むと2週間ぐらいかかると言われて、腰を上げるタイミングも完全に間違えている。

上がってきたものを見て、思わず目を疑ってしまいました。身の回りに関する記憶力には自信があったはずなのに、どういう意図で撮ったのかも分からなければ、どこで撮ったのかも分からない、そもそも撮った覚えもないような写真がかなり多いわけです。ちょっと混乱を来すレベルで。断片的なイメージを辿りながら朧げに記憶を補完はできるのだけど、それでも分からないことが多すぎる。

面白いのが、時間が経っていることに加えて、なんだか自分にしては上手く撮っているように見える写真が多いこともあって、確実に自分で撮っているにもかかわらず、ほとんど自分の手を離れたような、自分ではないJohn Doeが撮ったものように感じられることです。すると同時に、銀塩写真のフィジカルな生々しさとともに、都市を彷徨する何者でもない誰かが、いつかどこかで記録したものとしての、ある種の匿名性の迫力のようなものを纏い始める…というあそび。